幼稚園に通っていた頃、砂鉄のお絵描きボードで遊んでいました。左右に引き、しゅっと消すのが気持ちよくて、お絵描きを楽しむというよりは消すために描いていたことを覚えています。

というのも、わたしがフラッシュバックに苦しめられているとき、そのへばりついた感触を左右にしゅっとする動作をするのです。するとその過去の感触はその面からこそげおちます。

消滅には快がある。今日驚いたことは、生前のプラトンについての文献がかなり詳細に残っており、紀元前何百年とかいうのものがいまだ鮮明にあるということです。

次の対応関係に意味があるのかわからないですが、永遠か消滅かだったら多分、後者の方がすきだと思います。

死後歴史にはりつけになるような人は、えらいですね。韓国の詩人で、なんだっけな…

調べたので出てきました。尹東柱です。「死ぬ日まで天をあおぎ 一点の恥じ入ることもないことを 葉あいにおきる風にすら 私は思いわずらった」

一点の恥じ入ることもないことを これはえらいことですね。

わたしは恥まみれです。恥というのがなにごとかというと、やはり自分の行ったことにたいして、そのとき、また思い返せば、よいことではないことをしたとの負い目を感じることです。

その負い目というものが厄介で可能性にたいしても構造的な制限をかけてしまうようです。

近日のトピックはそういうことについてですが。

少しお話の要素が増えてきたので今回は終わり